東北応援ライブツアーレポート2日目〜第4弾 女川オレンジハウス〜

8月15日(水) 朝7時30分起床、8時朝食、9時出発。

今朝も炭火で焼いた美味しい秋刀魚でパワーチャージ。

石巻の水産加工場が並んでいた海岸沿いを車で走る。

がれき(という言葉は少しはばかれるものの)の山、
潰れて壊れた自動車たちが広い場所に積み上げられているところを
通りすぎると草原地帯へ。

そこはかつて住宅街で、
草の切れ目からはレンガの門やコンクリートの基礎などが整然と並んでいる。

言葉を失いながらも、
とにかく福井にいるみんなに伝えなくちゃと車の中から夢中でシャッターを切る。

津波に襲われながら、流れて来た車などのガソリンで引火し、
火事になった門脇小学校の近くまで行くと、何やら学校前で動いている人々が。

窓ガラスがなくなり校章がはがれ、時計も流れ去り、焼けこげた校舎前のグランドで、
野球少年たちが白球を必死においかけている姿だった。

学校の前には「門小ガッツ!僕らは負けない」の手作り横断幕。

学校近くにあった慰霊の場には、「がんばるぞ!石巻」「復興するぞ!」の文字。

港近くにあった水産加工場はどれも流されていたものの、
いくつかの会社は再び新しい工場を作っていることに驚く。

何年後かにまた大地震や津波が来るかもしれない、と言われていても
「ここがオレたちの生きる場所だ」という覚悟を見ている気分にさせられる。

なんと強いことか。

今回場所のお世話をしてくださったOさんご夫婦の元へと車を走らせる。

震災前は、女川町でライブハウスを経営されていたけれど、すべて流され、
今は女川町の町立病院前にて「おちゃっこクラブ」という気さくな
喫茶店を経営されている。

この女川町立病院は高台の上にあるが、ここも津波に襲われた。

駐車場の一角には慰霊碑もあり、私たちも合掌をさせていただいた。

女川町立病院の被災時の写真と記事(日本経済新聞) 

町立病院内にて津波を経験した方の証言(河北新報)

町立病院の眼下に広がる津波で流された更地と建物。

右上にあるのが町立病院、下にある建物は倒れて屋上が見えている。

お店の前にいたのは、新聞紙でつくったカブトをかぶり、
紙でつくった眼帯をつけ、伊達政宗に扮したランニング姿の少年。

Oさんの息子さんS君に出迎えられる。 Oさんにご挨拶をさせていただき、
ライブ会場となる場所へ車に乗って移動するが、信号も流されているので、
車はお互いにアイコンタクト&譲り合って道路を走る。

女川町立第2小学校横にある「ふれあいオレンジハウス」に到着。

俳優の中村雅俊さんがここの出身で、震災後に寄贈されたとのこと。

リハーサルを終えるとOさんは日に焼けた顔をくしゃりとさせながら、
地震と津波があった時のことを話してくれた。

女川町立病院は、高い丘の上にあり、津波がきても大丈夫と言われていたそうだが、
あの日は1階部分がまるまる水に埋まるほどであったそうだ。

Oさんはその時たまたまその高台におり、遠くに見える海に白波を見つけた。

「せいぜい60センチくらいだろう」と思っていたのが、見る間に押し寄せ、
第一波が眼下に並ぶ町を根こそぎ倒して行った。

自分の家も。

ただ眺めるしかなかった。

昨晩一緒に飲んだ友達が、屋根に避難しているのを見つけ
「そんなとこにいちゃだめだ」と叫ぶが声は届かず。

そしてそこに行くこともできず。

波は一階部分をなぎ倒し、
屋根だけにして友達を引き潮と共に遥か沖まで流して行ってしまった。

見るだけしかできない自分。 数日後、その友達と再開し、幽霊かと思う。

「オレあのとき屋根にいたお前を見たんだよ」と声をかけると、
「オレも高台にいるお前を見たんだよ、で「さよなら」って言ったんだ。
もうだめだと思ったから。
そして沖に流されながら、電波が届くうちにと思って家族に携帯電話から、
さよなら、ごめんなって、電話したんだよ」

その方は偶然近くに浮いていたボートに飛び移り、
そのあと通りかかった原発の船に拾われ、
原発で一泊してから戻って来たとのこと。

Oさんがおっしゃるには、町が津波に飲み込まれるというのは
映画にあるようなそんなものではないと言う。

まず音がすごい。

女川じゅうにある車が水に埋もれ電気系統がショートして
クラクションが鳴りぱなしになるらしい。

それは車が沈むまで鳴り続けるが、中には「人がいるから援けてくれ」
という合図を送るクラクションもあったそうだ。

建物が倒れる音、コンクリートの電柱が折れる音、鉄筋がねじれる音、
家同士がぶつかる音。

津波が時速50キロで流れるので、そのスピードでぶつかり合う様は想像を絶する。 お

店をやっていたOさんは、身元不明の死体判別にも呼ばれたが、
顔はどれも傷だらけで判別できず、「今日の午前中来ていた服だ」
「この時計はダレソレだ」と言う風に判別していたそうだ。

今住んでいるのは4畳半が二間ある仮設住宅。

5人がそこで暮らしている。

しかし、ここで暮らせる精神的な限界はせいぜい2年だろう、
家を建てたくても場所がなく、もうどうしようもない、
だから今はこう思っている「修行」だってね。と。

女川町立病院は一階部分が水に流されたが、2階3階部分は大丈夫だった。

Oさんの同級生が医院長をされており、Oさんは「病院は絶対に必要だ、
一階部分はオレたちがどうにかするから、お前は2階で患者をみろ」と
修復と薬の調達に奔走されたとのこと。

持病をおさえるための日常的に使っていた薬が圧倒的に不足していたらしいが、
3日後には薬が届き始めたとのこと。

自衛隊もよくやってくれたそうだ。

Oさんの奥さんは当時妊娠中で、病院に行く必要があったが、
自衛隊が機関銃のついた戦闘機で遠く離れた病院に送ってくださったらしい。

その赤ちゃんは今、お茶っこクラブのお店にたつ奥さんにおぶわれながらすくすく育っている。

壊滅した女川町には3つの四角ビルが倒れているが、
それを津波の影響力を示すシンボルとして残すかどうか意見が二分しているらしい。

倒れているのが、2件隣の敷地で、土地の持ち主が解体を望んでいること、
そしてその下に遺体があるかも知れないという可能性が捨てきれないことなど。

しかし残したいという人もいて今は考え中とのこと。

時間になり、10人ほどの人が集まってくださったところでライブスタート。

セットリストはこちら。

1.歩き続けよう
2.Welfare〜ふれあって つながって 輪になって〜
3.ぼくのゆめ
4.ONENESS
5.Thanks to the World
6.ゆっくり大きくなってね
7.君の明日へ
8.Grow Up(アンコール)

【ライブの様子はUSTREAM動画にてご覧いただけます】

観光課の所長さんもお越し下さり、「来年もぜひ!」と声をかけてくださったり、
女川さいがいFM臨時災害放送局の方に取材を受けたり、
参加人数は少なかったもののとてもノリよく笑顔よく
私たちも逆に励まされるような感じもあった。

S君に福井から持って行った花火のプレゼントをあげたら
「でっけー!」と喜んでくれて、パパであるOさんも
「こんなでけーの見たことねえべ!」と一緒に喜んでくれた。

今日やる?というS君の問いに、今日はできないけど、
すぐにどこそこでいつやろうな!と言ってもらい、S君はとても嬉しそうだった。

帰り際、ピースで記念写真。

また会う約束をしてさよならする。

本日の宿泊先となる南三陸ホテル観洋に移動。

ここも地震の時に2階部分まで津波をかぶったところ。

ホテルにて温泉に入り、ご飯を食べて就寝。

東北応援ライブツアー3日目
〜第5弾 伊里前福幸商店街〜に続く

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